それはまるで、私の好きな漫画家の作品の一場面みたいな出来事から始まった。


  Need not to Remember 前編


時は丁度、大学で前期の講義が 終わって全学生に成績表が渡された頃だった。

「ハアァァァ〜。」

私はその時学生食堂のテーブルに肘をつき、ため息をついていた。
目の前には今日渡された成績表がある。

大体においては問題のない成績だった。
80点以上につけられる『優』が4割で後は70点以上につけてもらえる
『良』で占められている。
ギリギリ単位を取得しましたって印の『可』は少数派だ。
よくもないが悪いっちゅーこともない。

さん。」

ふいに声をかけられて私は後ろを振り返った。
いたのは2人の女子学生、特に親しいって訳じゃないけど時折言葉を交わす人達だ。

「ヤッホー、偶然ね。今からお昼?」

1人が言った。

「まぁ、そんなとこっス。」

私が適当に答えると、1人が私の顔を覗き込む。

「何か浮かない顔だけど大丈夫?」
「いやぁ、ちょいと…」

私は言葉を濁したが向こうは多分何も考えてないんだろう、
2人ともさっさと私の隣や向かいに座って次の話題に移ってしまう。

「そういえば成績表渡されたよね、どうだった?あたしかなり危なかったよー。」
「あたしなんか基礎科目の単位1個落としちゃってさ、来年再履修。」
「とりあえずさ、ドイツ語の単位が取れてよかった。ちょっと危ないかなぁって
心配だったんだよね。」
「あ、あたしも。ギリギリだけど。」
「あの先生相手だと何か単位落としたくないって思っちゃうんだよね。
印象悪くしたくないって感じ?」
「わかるわかる、その気持ち。」

ここで1人がラーメンをつついてた私に目を向けた。

「ところでさんはどうだった、跡部先生のドイツ語。」

  ゴンッ

話を振られた瞬間、私はプラスティックのラーメン鉢の横に頭をぶつけた。

さん?」
「ハ、ハハ、ハハハ。」

私はやけくそ笑いをしながら2人の鼻先にさっきまで眺めてた成績表を突きつけた。

私の基礎科目、第2外国語の
ドイツ語の欄には不可とあった。




漫画家・川原泉の作品に、

『Intolerance──あるいは暮林助教授の逆説(パラドックス)

というのがある。

この漫画の冒頭、主人公の女子学生が講義にまめに出席し完璧にノートを
とってるのにも関わらずレポートに『不可』をつけられた、
一方講義をしょっちゅうサボって人のノートを借りてばかりの友人達は
『優』をもらっていて主人公が釈然としない思いをする場面がある。

この時の私もまさに似たようなもんだった。

川原泉の漫画の主人公が『不可』をつけられたのは数学のレポートであり、
私の方はドイツ語でそれもレポートはないが科目の種類は問題ではない。

「えー、嘘でしょう?!」

私の成績表を見つめていた1人が声を上げた。

「だってさん、いっつも真面目に講義出てるじゃない。
小テストも確か毎週高得点だし、あたし達さんのノートで助かってたみたいな
もんなのにー。」
「ホントホント、これきっと何かの間違いだよ。」

もう1人も言う。
私はというと、最早憮然たる顔でラーメンをすするしかない。

そうなるのも当たり前、何故なら私のドイツ語の成績は59点で
『不可』をつけられていたのだから。59点ってなんだ、59点って!
単位ってのは60点以上でもらえるがそもそも『不可』を貰う覚えがない上、
こんなギリギリで落とされるなんてやりきれないったらない。

「ねぇ、」

1人が言った。

「跡部先生に申し立ててみたらどう?」
「何ですと?」

唐突な提案に麺が喉に飛び込みかけて私は軽くむせた。
確かに我が校には成績について異議があれば担当教官に申し出ることが出来る、
という制度があるが、それを利用した学生がいるなんちゅー話はついぞ
聞いたことがない。

この子は私にその第一号になって大学中…は大げさとしても私の所属学部・学科を
ビビらせろとでも言うのだろうか。

それに、あの先生はちょっと、なぁ…

しかし、たいていのことは見逃せても今回ばかりは見逃せないのも事実。
そもそも基礎科目ってのは卒業に絶対必要な科目達、他の科目の単位を
いくつ取ってようがこいつの単位が一つでも取れてなかったら卒業できない。

現に私の知ってる人の中にも、この基礎科目の単位が取れずに留年してる人がいる。

そんだけ大事な基礎科目の一つであるドイツ語にこんな言いがかりのような点数を
つけられて黙ってられる訳がない。

そんなことをぶちぶち考えてると、

「あ、あそこ、跡部先生だ。」

もう1人が言った。
彼女が指差した先には食堂の窓、丁度噂のドイツ語の担当教官が
通り過ぎるのが見える。
瞬間、私は食いかけラーメンをほったらかして立ち上がっていた。

「御免っ、私行ってくる!悪いんだけど食器代わりに返しといて!」

そんで相手の答えも待たずに矢継ぎ早にまくしたてると私は鞄をひっつかんで
ドタバタと駆け出す。

「いってらっしゃーい。」

知人お2人さんの声が追っかけてくるのが聞こえた。



文学部ドイツ文学科、跡部景吾と言えば学部だけでなく大学全体でも
ちょっとした有名人だった。
まだお若いのにドイツ語の研究者としての実績は他の教官の追随を許さない。
頭脳明晰は勿論だが学生の頃は全国レベルのテニス選手としても有名で
しかも見目麗しく、女子学生からの人気は絶大だ。
派手好きでやや態度がでかくて偉そうだがそれで女子学生の彼に対する熱が
下がらないんだから立派なもんだ。

私はというと、この先生の『でかくて偉そう』な態度がどうにも苦手なのだが。

そんな人に是が非でも文句を言ってやらんが為に私は騒々しく走っていた。
跡部先生という人は足が速い。
一見ゆったりと歩いてるようだがなかなか追いつけない。

向こうはこっちが来てるのに気がついてるのか否か、振り向きもせずに
悠然と歩き続けている。
私はというと後もうちょいとこの人に追いつけるはずなのに一定以上の距離を
縮めることが出来ない。
そうしているうちにとーとー大学の教官達の研究室が集まった研究棟まで
来てしまった。
ドイツ語で私に『不可』をつけやがった教官はそこへと入っていく。

私もすぐに後を追って研究棟のロビーに足を踏み入れるが、既に跡部先生の
姿はなかった。どれだけ足が速いんだろうか。

しょうがないのでロビーの壁にかかっている案内板で跡部先生の
研究室番号を確かめる。
受付のおばちゃんがハァハァと息を切らせている私を胡散臭そうに
見つめるのを見なかった振りをしてさっさと2階へと続く急な階段を上った。


研究棟2階の一番奥、随分と薄暗いところに跡部景吾氏の研究室はあった。
廊下はひっそりとしていて、今のところ私以外の人影はない。
他の研究室にはもしかしたら人がいるかもしれないが、立ち並ぶドアからは
何の気配も感じることが出来ない。

今まで研究棟に足を踏み入れたことなどなかったので誰もいない廊下で
そんなドアの列を見てると妙に威圧感を感じた。
しかしそんなことを言ってる場合ではない。

「…スゥ。」

私は息を深めに吸うと、跡部先生の名前と在不在を示すプレートがかかった
古めかしいドアをノックした。

「入れ。」

低音の声がする。何て偉そうな、と思うのは私だけか。
そんなことはともかく、

「失礼します。」

私はドアを開けた。

跡部景吾先生ご本人は机に向かって何か書類を書いていたが、
私が入ってくるとふと手を止めて顔を上げた。

「誰かと思ったら、英文科のか。」

開口一番、先生は私のフルネームを所属学科付きで呼んだ。
珍しいこともあるもんだ。うちの大学の教官なんてのは大抵顔くらいならともかく、
自分とこのゼミの奴でない限り大量にいる学生の名前なんぞあんまし覚えてない。
例えそれが通常の講義科目よりも少人数のクラスに分けられてる
基礎科目だったとしても、だ。

それなのにこの人は名前どころか学科まで覚えている。
(多分場合によっちゃ学部も細かく覚えてるんだろう。)

「何か用か。」
「実は、今学期のドイツ語の成績のことでお話が…」

言いながらも口の中が乾いてくる。やっぱりこの先生は苦手だ。

「ああ、そうか。」

跡部先生は机に肩肘をついて言った。

「とりあえず座れ。」

言われて私は手近にあったソファに座り込む。
こいつは間違いなく元々大学にあったものじゃないだろう。
張られてる革も肘掛けや脚に使われてる木も、人生経験乏しき女子学生にすら
わかる上等もんだ。
私が座ったのを確認すると先生様はどこか見下してるような笑みを浮かべた。

「で、ドイツ語の成績がなんだって?」
「あの、先生は私の評価に不可をつけられましたよね?」
「それがどうした。」
「何故ですか?」
「何だ、お前、俺の評価に文句あるってのか。」

そうでなけりゃわざわざこんな研究棟くんだりまで来るわけがない。

大体、いくら学生といえど相手に向かって『お前』呼ばわりとは何事だ。
講義ではそんな物言いをしてるのを聞いたことがないから、
さてはこいつ普段猫を被ってるな。

「はい、そうです。」

内心はともかく私は言った。

「私は講義をさぼったこともありませんし、毎週課題もちゃんと提出してます。
どうして不可をつけられるのか納得がいかな…」

言いかけて私はやめた。
机に肘をついて話を聞いていた教官が凄く剣呑な目つきをしてるのに
気が付いたのだ。
何なんだ、その物騒で私を射殺(いころ)したそうな視線は。
私、何かおかしなこと言ったか?いいや、おかしいのは間違いなくこの教官だ。

「顔。」
「はい?」

唐突な跡部先生の発言に私は聞き返す。
しかし跡部先生はお構いなしに続けた。

「てめぇの面が気に食わねぇ。」
「ちょ、ちょっと待ってください!」

私は思わずソファから立ち上がった。

「確かに私は大したご面相じゃありませんけど、そんな訳のわからないことで
不可をつけるなんてそんな…」
「誰がお前の顔の造作の話をしてる。」

ガタッと音がして跡部先生も立ち上がった。
そして先生は突っ立っている私の前に歩み寄っていきなし人の顔に片手を当てる。
それだけでも十分に心臓に悪いのに更にこの人は意味不明のことを言い出す。

「似てんだよ。」
「だ、誰に?」
。」

誰だよ、それ!と叫んでやりたいところだがいかんせん、
そういう訳にもいきそうにない。
その間にも跡部先生は人の顔に勝手に手を当てたままじっと私を見つめっぱなしだ。

「何故だ。」

跡部先生は呟く。
そう、何故だ。何故私は今こんな目に遭ってるんだ。
だが跡部先生の問いはそういう意味ではない。

「何故髪型も顔もあいつにそっくりなんだ。しかも顔の骨格が一緒のせいか声まで
似てるときてやがる!」

声荒げて言われたって私の知ったことか!
だめだ、この人やっぱり怖い。
目つきは相変わらず剣呑だし、耐え難きは耐えられない。

そう思った瞬間、私は跡部先生から高速で離れてドアまで後ずさっていた。

「そ、それじゃ、私は失礼します。原稿出さなきゃならないんで…」
「あ?原稿?」
「サークルの会誌に載せるんです。今日が締め切りなんで、では!」

言うだけ言って私は部屋から飛び出した。

大急ぎで研究棟の廊下を走りながらふと例の川原泉の漫画で主人公が同じように
成績のことで助教授に抗議しにいき、同じように『顔が気に入らない』と
意味不明なことを言われてたのを思い出した。



跡部先生の奇行にビビらされて研究棟から逃げ出した私が向かってた先は
大学の部活動やサークルの部室が集まった部室棟だった。

ここの4階に私の所属する漫画サークルの部室があるのだ。
つまり、跡部先生に向かって口走ったことは別にその場を逃げ出すための
ハッタリではなく事実だったりする。

とりあえずドイツ語の件で時間を割かれたので急がねば。
でないと会誌の編集担当者に原稿を渡し損ねてしまう。

大急ぎで階段を駆け上がり、

「おーっス!」

壁で仕切られただけのドアすらない部室の出入り口を覗き込んだら、
サークルの同士達―それも野郎ばっか―が煙草をふかしながら談笑している。

「おう、。」

1人が気がついてこっちを見た。
会誌の編集担当者である。

「随分息切らしてどうした?」
「決まってるでしょ、」

言いながら私はごそごそと鞄を探ってA4サイズの紙の束を引っ張り出す。

「原稿出しに来たの。」

しかし私がそう言った瞬間、編集者の顔が強張り、談笑してた野郎共が沈黙する。
一体何事かとキョロキョロする私に、

「悪ィ、。」

編集者は言った。

「ついさっき印刷所に送っちまったトコだ。」

一瞬私は状況がよくわからずに失語症に陥る。
そうして数秒後、

「うっそぉー?!」

やっと事を認識した私は思わず頭を抱えて叫んでしまった。

これが叫ばずにおられようか。何たって今回の原稿はスランプに見舞われて苦しんだ挙句昨日の夜中にやっと仕上げた代物だったのだ。
せっかくインクと紙と時間を費やしたというのに…

「ホントに悪ィな。」
「いや、いいよ、別に。」

申し訳なさそうに言われたところで最早どうしようもない。
そんな私らのやり取りを見て沈黙してた仲間達が口を開き始める。

「ま、たまにはそんなこともあるんじゃねぇの?」
「けど珍しいよなぁ、いつも締め切り遵守のがぁ。」
「これでも俺らの仲間入りだな!」
「バカ、てめぇは前ん時編集に頼み込んで締め切りを強引に引き伸ばしただろうが。」

そんでその場にいた野郎共は他人事なのをいいことにアハハハと笑い飛ばす。
私は、A4サイズで32ページ分の紙の束を握り締めたままその場で呆然と立ち尽くすしかなかった。


部室棟を後にした私は帰宅すべくトボトボと校門へと向かっていた。

まったくもって何てことだろうか。
心当たりがないのにドイツ語の単位をパーにされ、抗議に行ったら担当教官は
おかしな行動に出るし、挙句の果てにはせっかく夜中までかかって仕上げた
漫画原稿もパーになった。

最悪だ、非常に腹が立つ。平静ではいられない。

「くそバカヤロー!!」

辺りに人気のないのをいいことに私はわめき散らした。

「何だってこんな目に遭わなきゃなんねーんだあぁぁぁぁ!!」

この際ガラが悪いのなんのとは言ってられない。
だが人気がないといえど他の学生や教官が今歩いてる道を利用することがあるのを失念してたのはまずかった。

「コラ、お前。」

後ろから声をかけられた。

「道のど真ん中で何叫んでんねん。」

東京ではまず聞かない言い回しに振り向いた私はこっそり、ゲッとつぶやく。
向こうも気がついたのか、おや、という顔をした。

「何や誰か思たらやないか」

理工学部の忍足侑士先生だ。長い髪に今時流行らん丸眼鏡が特徴の人で、
実は私とわりと親しかったりする。
何で文学部の学生である私が理工学部の教官と親しいのかというと、
この人はうちの漫画サークルの顧問なのだ。
顧問と言っても名ばかりで実際この人自身はサークルに顔を出すことも
ほとんどなけりゃ、運営に口を出したこともないのだが。

私はいっぺんサークルの書類にハンコを貰いにこの人のところに行ったことがあって、
その時どういう訳か意気投合してしまい、会えば良く喋ったりたまに昼飯を
奢ってもらったりして今に至っている。

「何や、今日原稿持っていった帰りか。」
「ま、まぁそんなトコです。先生はこれからどちらへ?」
「今から昼飯や。」
「あれ、まだ食べてなかったんですか。」
「あー、今日はメッチャ忙しくてなぁ。今から買いに行くんやけど、
も一緒に行くか?」

言われて私は自分が腹をすかしていることに気づく。
そういや跡部先生を追っかけるのに昼食を途中放棄したんだっけ。

「ご一緒します。」

私は忍足先生の後についていった。


で、次の瞬間には私と忍足先生は2人してベンチに座り込み、
大学生協で買った昼飯を食べていた。

私は大口を開けて鶏飯おにぎりにとりかかり、忍足先生は静かに
お弁当のひじきを口に運ぶ。
この時、2人とも黙って食してたのだがどうも忍足先生がチラチラと
私を見てるようで落ち着かない。
しばらくは知らない振りをしていたが、どうやら気のせいじゃないことに
たまりかねて私はとーとー尋ねた。

「先生、私の顔、何か変ですか?」
「んっ、いや別に。」

今先生は明らかにギクッとした。こいつは絶対何かある。

「何もあらへんで。」
「何にもないわりにゃやたら私の顔に先生の視線を感じるんですが。」

鶏飯おにぎりをかじりながら更に私は聞いてみる。
そんな私にしょうがない、と悟ったのか先生は割り箸でご飯をつまみながら言った。

「いや、お前見てたら似てるなぁ(おも)て。」
「誰に?」
「昔の知り合い。まぁ気にすんなや。」

そんな言い方をされて気にしない奴がいるならお目にかかりたいものだが。

に、ですか?」

尋ねた瞬間、忍足先生の顔から血の気がひいた…ように見えた。

「何で知ってんねん…。」

私は忍足先生に事の次第を話した。
(この間、鶏飯おにぎりをかじることも忘れてない)
さっき珍しく動揺を見せたた忍足先生は話を聞き終わると、そうかぁ、と小さく呟いた。

「なるほどな、それであんな道のど真ん中で騒いどったんか。
しかしまぁ跡部らしいっちゅーか何ちゅーか…」
「らしいとからしくないの問題じゃないですよ、こっちは身の危険を感じたんですから。そもそもって誰ですか?」

私の問いに忍足先生は鯖の焼いたやつを箸でほぐしながら答えた。

は俺らと同い年でな、中学の頃から跡部と付き合う(つきおう)てたんや。」
「過去形ってことは今は違う、と。」

私は鶏飯おにぎりをたいらげて、今度は鮭わかめおにぎりの包装を破りにかかる。

「まぁな。」

鯖を食べながら忍足先生はわずかに顔をしかめる。

「ごっつ仲良かったんやけどな、ある時急に…」
「あ、わかった。」

私は口を挟んだ。

「跡部先生が別れる宣言したってオチでしょ。」

跡部先生がその派手好きな印象故に、女の人に関しては1人に留まらずあっちこっちと渡り歩くという噂は彼を知る学生達の間では有名だ。

「ちゃうわ、アホ。」

しかし忍足先生は私の言葉を強く否定した。

「跡部はな、にメッチャ惚れてたんや。」

私は危うくベンチから落ちそうになったが危ういところで堪える。

「せやけど大学の頃にがな、いきなりな…」

忍足先生はここでハァァァとため息をつく。

「そういえば忍足先生は跡部先生と仲が良かったですよね。」
「まぁ仲がええっていうか、中学の頃からの腐れ縁やな。
今でも覚えてるけどあん時の跡部はさすがに可哀想やったなぁ、
あの自信過剰がすっかり憔悴してもて。」
「ハア。」

私は間抜けな返事をするしかなかった。
いずれにしろ、ドイツ語の跡部先生って人は変な兄ちゃんだと思う。



跡部先生の研究室ですこぶる不気味な思いをした次の日、
私は文学部内にある英文学科研究室に行っていた。
前期に出したレポートが返却されることになってたのに、取りに行くのを忘れて
学生呼び出し用の掲示板に名前を張り出されたのだ。
そゆ訳でレポートを受け取って研究室を出たのだが、

「よぉ。」

私は危うく『ギャーッ!』なんぞと阿呆な声をあげるところだった。
なんてったってふと横を見りゃあの跡部先生がいたのだ、私にとっては心臓に悪い。
(不整脈が起きそうだ。)
どうやら丁度ドイツ文学科の研究室から出てきたところらしいが、
何故にドイツ文学科の研究室は英文科研究室の隣にあるんだろうか。

「あんだ、熊にでもあったみたいな面して。」
「い、いや、そんなことは…」

熊ならまだマシ、私にとって跡部先生は怨霊に近い。

「そういや結局間に合ったのか、ゲンコーは。」
「いや、それが…」

私は言葉を濁してニュアンスだけ伝える。
そんな私を見て跡部先生はクックッと講義の時には見たことのない
嫌な笑いを漏らした。

「そいつは悪かったなぁ。」

笑い方と言ってることの釣り合いが取れていない。
本当は何とも思ってないことは明白だが、そう突っ込むわけにもいかない。
とりあえず私は曖昧な笑みを浮かべておくだけに留まった。
忍足先生もよくこんな人と友情が続くもんだ。

「ところでお前。」
「はい?」
「聞くが、夏休みは何か予定あんのか。」

どうにも言動が唐突な人だ。
予定なんぞは別にない、どうせ家に籠もって課題を済ませたり
来るべき大学祭のためにイラストを描いたりしてるだけである。
しかしそれをこの先生に言うのは何となく悔しいと思う。

「まぁいい。」

沈黙を守る私に何を思ったか跡部先生は言うと、上着の胸ポケットから
何やら紙切れを取り出して私に押し付けた。

「気が向いたらそこへ来い。」

私は押し付けられた紙切れに目を落とした。
手帳から切り取ったらしきそれには気取った青インクの字で
とある住所が書かれていた、それもとある高級住宅街の。


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